エバは本当にアダムのあばら骨で作られたのか?
エバは本当にアダムのあばら骨で作られたと思う人~~?
いいえ。エバはアダムのあばら骨で作らませんでした。
でも聖書にはエバはアダムのあばら骨で作ったと書いてあります。
今日のテーマは、人々が聖書を信じない理由としてあげるトピックのうちの1つ。 「アダムの妻エバが初めて現れるときの過程」について。
まず、神様はアダムを深く眠らせます。
そして眠ったアダムのあばら骨を1つ取ってエバを造ります。 (創世記2:21-22節)
創世記を読んだ多くの人々がこの御言葉に疑問を抱き、
牧師に質問したと思います
でも牧師は神様に不可能なことはないと説明します。
今は信じられなくても、祈っていくうちに、信じられるようになると…。
だけど本当にそうなのか…。
本当に神様はあばら骨でエバを作られたのでしょうか?
それとも、また別の意味が隠れているのでしょうか?
もちろん、聖書には、神様の不思議な力について、たくさん書かれています。
1.腐敗したソドムとゴモラの地を天から降る火で裁く
2.エジプトから出てきたイスラエル人が通ることができるよう紅海を2つにわける
3.荒野で、天からマナという食べる糧を与える
これを見ると、アダムのあばら骨でエバを造ることも不可能ではない気がします
しかし、創世記には、文字通りに読んでもいい内容と
文字通りに読んではいけない内容があります
バイブルは、その中に込められた意味を読み取って初めて、理解できる本です。
このように、
聖書が比喩で記録されていることを知らないと、誤解してしまいます。
エバはアダムのあばら骨で造られた人ではありません
比喩で話されているのです。
比喩は映画やドラマでもよく見られ、私たちも時々使う表現です。
たとえば、会社や組織の代表がいて、最も近くで助けてくれる人は何でしょうか?
君は私の右腕である。あなたは左腕である。と言うでしょう。
それでは彼は実際に代表の右腕を切って、
細胞を培養して完全な人として作ったのかと言ったら違いますね。
会社を1つの体に例えたときに、組織や人々は体の肢体で表します。
会長は頭、会社を引っ張っていくために必要な部署や人を右腕、左腕、
会社の財政を血、行政システムを血管というように。
それぞれの肢体が役割をきちんと果たすと、会社は健康な体として、
上手く運営することができるでしょう
同じように2000年前、イエス様と弟子たちは、教会を人の体に例えました。
コロサイ人1:18、Iコリント12:12-27を見てみると、
イエス様を教会の頭、聖徒たちを手、足、耳、目などで表現しています。
パウロは、お互いが無駄だとか立派だとか言って争わないように、
教会も1つの体であるから、お互い争わず配慮しあうようにおっしゃいました。
では、エバについて見てみましょう。
エバは実際に、アダムのあばら骨で作られたのではありませんでした。
エデンの園のトップであるアダムが、
あばら骨のような聖徒の1人を選んで、
自分を助ける配偶者にしたという意味です
このような内容を知らないと、どんなことが起こるでしょうか
ありえない話だと思いながらも、無理に信仰を強要したり、
科学的に説明しようとして、より批判を受けてしまったりします
このような姿を見ながら、神様はどれほど残念に思っていらっしゃるでしょうか?
そのため、聖書は正しく教えてくれる師のもとで学ばなければなりません。
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善悪の木の実は果物か?
今日のテーマは善悪の木の実です。
皆さんは、善悪の木の実について、
一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
「善悪の木の実」を何だと思いますか
これを、りんご、桃、ブドウ、小麦、また貪欲などであるという人がいます。
はたして、善悪の木の実の正体はいったい何でしょうか
ここで1つの疑問が生じます。善悪の木の実は先程述べたように
本当に果物でしょうか? りんごを食べて、人が死にますか?
りんごを食べて死んだ人は白雪姫しかいません
創世記2章17節に、神様は善悪を知る木の実は食べてはいけない。
あなたが食べるその日には必ず死ぬと、
神様は明らかに善悪の木の実を食べると死ぬとおっしゃいました。
ところが、アダムとイブも善悪の木の実を食べてすぐには死にませんでした。
むしろ、彼らは善悪の木の実を食べたら目が明るくなって、
自分たちが裸になったのがわかり、身を隠したと記されています。
そして創世記5章1-5節には、アダムは善悪の実を食べても
930歳まで生きたと記録されています。
善悪の木の実を食べたアダムとイブが、善悪の木の実を食べていない
私たちよりも10倍以上も長く生きていたということです。
このことからも、実際の果物ではないということが分かります
アダムが善悪の木の実を食べたということは本当です。
決してバイブルが間違っているということではありません。
しかし、私達が知らなければならないことは、
アダムが善悪の木の実を食べたときに死んだのは、
アダムの肉体ではなく、霊であるということです
神様が必ず死ぬといったのは肉体ではなく、霊だったのです。
また果物を食べて、霊が死ぬことはありませんね
人の霊を殺すのは、神様に敵対するサタン、悪魔の嘘です。
つまり、善悪の木の実というのは、
食べると霊が死ぬ、悪魔の嘘であるということです。
もっと内容を詳しく知りたい方!下のぜひ動画をご覧ください
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天国はどんな姿でしょうか?
天国を想像したことがありますか
花道?それとも、金、銀、お宝でいっぱいなところでしょうか
夢で、死んで生き返った人の中に、天国を見てきたという人たちがいます。
しかし、あいにく見てきた人たちが説明する天国の姿はみな、ばらばらです。
2000年前、イエス様の弟子だった使徒ヨハネは、啓示録21章に、
こうに記しています。
「天国は聖なる都エルサレムといい、黄金、ダイヤモンド、宝石、数多くの真珠でいっぱいである。そして、憂い、心配、苦痛のないところだ。」
天国についてもう一度、考えてみる必要がありそうです。
私たちが死んだら行きたいと思う天国ですが、
黄金、ダイヤモンド、金銀の宝石が死んだ人たちに、
はたしてどれくらい必要でしょうか
皆さんは、イアリングをして ネックレスをした幽霊を見たことがありますか?
実際、金や銀やすべての宝石は、生きている私たちには、
とても価値のあるものですが、死んだ人にはまったく役に立ちません。
では、なぜバイブルには天国についてそのように記されているのでしょうか?
バイブルは文字通りではなく、
その中に込められた意味を読み取って初めて理解できる本だと、以前にご紹介しました。
ヨハネによる福音書1章1節
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」
神様が自分のことを言葉だと話しましたが、
それなら言葉=御言葉もまた大きな価値を持っていると言えるでしょう。
ところが、神様や御言葉の価値を知らないまま生きている人が多いです。
それで神様は人々が宝石を欲しがり、宝石に価値を置くように、
御言葉が人々にとって、
とても大きい価値があるということを知らせるために聖書に宝石と表現したのです。
ヨブ記28章12節~18節
「神様に授かった知恵と悟りが、どんな数多くの宝石よりもとても貴重だ」、
詩編119編127節「戒めをどんな純金よりも愛する」。
第Iペテロ2章4節にはイエス様を「尊い生きた石、すなわち宝石」と記しています。
イエス様が宝石であるということです。
コロサイ人の手紙2章2節~3節
「神様の秘密であるイエス·キリストの中には
知恵と知識とすべての宝物が隠されている」。
天国がどのように作られていて、またどのようにしたら行けるのか、
「御言葉が金」であり、「イエス様が宝石」となり、
「イエス様と御言葉があるところが天国」ということになります。
マタイ福音章の4章17節では、イエス様がユダヤ人たちに
「悔い改めよ、天国が近づいた」とおっしゃいました。
2000年前のユダヤ人は、天国がどんなところか、
どうやって行くのかを知らなかったので、この御言葉を理解できたでしょうか
今回、皆さんが天国についてしっかりと理解する時間になったらと思います。
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死ぬとすべてが終わるのか (今まで一度も聞いたことがなかった 人間の存在についての質問と答え)
人の死
1.亡くなったの意味
「亡くなった」という表現は、人のみに使うことができます。
それは、人には「動物にはない霊がある」からです。
人は死んだ後にどうなるのでしょうか すべてが終わるのでしょうか
肉体は土からできているので死んだら土にかえるのです。 では、霊はどうでしょうか霊も墓の中にいるのでしょうか?
それとも、霊は死んだのでしょうか
肉体は死んでも、霊は死にません。
霊は肉体が死ぬとその肉体から離れ、来たところに戻ります。
霊は神様のところから来ました。それなので、
肉体が死ぬと霊は神様のところに戻ります。
このように、人間には霊があるため「亡くなった」ということができます。 動物には「死んだ」と言います。人にも「死んだ」と言うことができますが、 「亡くなった」は唯一、人にだけ使える単語です。
亡くなったという単語の主語が、霊であるためこれこそが、 人にのみ霊があるという証拠でもあります。
2. 人には魂があります。
誰かが亡くなったときに、天に帰ったと言います。
先にお話したように、霊が神様に作られたものならば、私達は神様のもとに帰ります。
「天に帰った」と言いながらも、帰る天については考えたことがありません。
「天に帰った」という表現は、「霊は死んだのではなく離れた。初めにいた場所に行った。」という意味です。
つまり、人には霊があるということです。
霊があるということは、神様がいるということでもあります。
霊をお造りになったのは、神様だからです。
霊については認めるけれど、神様を認めないというのはつじつまが合いません。
3.亡くなったの宗教別の意味
まとめてみると、人には肉体と霊があります。
そして言ってみれば、この肉体は霊が入って一生涯走る馬のようなものです。
仏教では、人が死ぬと火葬をします。
そして焼いた後には、灰だけが残ります。
その灰を壺に入れお墓へ移動するとき「霊駕をお迎えします。」と言います。
燃えて灰になった肉体を霊駕と言います。
「肉体に霊が乗って歩く」という意味で、「駕」の漢字を使います。
肉体は、霊が入り一生涯、乗って行く馬だということです。
聖書の中のエレミヤ哀歌では、神様が馬に乗って来られると書かれています。 (ハバク3:8-9、哀2:4)
その預言は成し遂げられましたが、実際、神様は本当の馬に乗って来られたのではありませんでした。
エレミヤ哀歌に預言された神様が乗ってくるという馬は、
イエス様の肉体を示していたのであり、神様はイエス様と一緒に来られるということだったのです。
皆さんも、みな馬です。自分自身の霊が、 肉体という馬に乗って走っているのです。 人には霊があり、その霊がいるということは、 神様がいるということを証明しています。
4. 人が死を恐れる理由
人が死ぬと、新たな始まりを迎えます。
だから人は、本能的に死ぬのを嫌い恐れるのです。
動物よりも死を嫌っているのが人です。人は死んだら終わりではないからです。
死んだら霊は肉体から離れ、霊が初めにいた場所に行かなければなりません。
ところが、その道を人は知りません。そのため、怖さを感じるのです。
世界3大嘘の一つがおばあさんが話す「ああ、早く死ななきゃ」という言葉だと思います。
そこで孫が「じゃあ、おばあちゃん早く死んで」と言うと怒られます。
おばあさんは、実際に死ぬのは嫌なのです。
死は年齢とは関係ありません。人には死の影が常に近くにあります。
人は死んですべてが終わるのではありません。 肉体は死にますが、霊は死にません。
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死んだら全てが終わるのでしょうか?
キリスト教のバイブルでは土で人を作ったと言っています。
もしそうだとしたら、粘土に水をつけて作ったということでしょうか?
人の存在について、一緒に考える時間を持ちたいと思います。
今まで私は誰なのか、考えてみたことはありますか?
実は、人は肉体と魂と霊で構成されています。魂と霊を合わせて霊魂と言います。
人の存在について、くわしく説明してみます。
寝ている人がいます。寝ているので肉体は床に横になっています。
そして、鼻で息をしています。
この息がまさに魂です。魂は、すなわち命です。そして、寝ている人が夢を見ている、
それがその人の霊です。
それなので、寝ている肉体を揺すって起こしたら、遠くへ行っていた霊がすっと入り、
起きたら誰に会ったのか、どんな話をしたのかを思い出します。
このような霊魂を東洋では別の言い方で、気、精神、心とも言います。
ここで精神とは、肉体や物質に対立する霊魂と心のことです
つまり、人が寝ているとき、肉体は床に横になっており、魂は体と共にありますが、
霊は出で行ってまた戻って来るということです。
植物人間になった人がいます。意識はなく、呼吸だけしています。
家族たちは長い看病の末、あきらめようとした時、
寝ていたその人が突然目を覚ますと、
家族は驚いて「意識」が戻ってきた!といいます。
「精神」が戻ったので魂に力が入り、魂に力が入ったことによって
肉体にエネルギーが生じ、再び動き始めるということです。
霊がしばらく離れると肉体は、残っている魂により命を支えますが、長くはもちません。
人はこのように霊、魂、肉体で構成されています。
そして、これらの関係を整理すると、霊は魂に、魂は肉体にエネルギーを与えます。
だから人には霊が最も重要であり、これが人という存在です。
では、肉体は誰が作ったでしょうか?両親が作りました。
では、何で作ったでしょうか?土で作りました。
私たちのこの肉体は、土から出る養分を食べて作られたということです。
父が土から出た物を食べて精子という種を作り、その種を母に与えました。
そして母は、土から出た養分を食べることで、へその緒を通し子供に養分を与えます。
10ヶ月後にはお腹から出て、これまでも土から出た養分を食べて育ってきたでしょう。
これをキリスト教のバイブルでは、土で人を作ったと表現しているのです。
粘土に水をつけて作った、ということではないのですね。
人だけでなく、すべての動物も土で作られました。
それでは子犬や豚にも、人のように霊があるのでしょうか?
肉体は両親が作ったのなら、霊はどのようにして作られたのでしょうか?
両親が土で肉体を作る時に霊も作られるのであるならば、
子犬も豚にも霊があるはずです。
しかし、子犬や豚には霊がありません。
では子犬や豚に霊がないという証拠は何でしょうか?
動物には精神がありません。
本能的に行動をし、理性がないことから、それがわかります。計画を立てたり、
自分の未来について考える動物を見たことのある人はいないですよね。
では、私たちの霊は誰が作ったのでしょうか?
作った人がいないのに存在することはできません。
そして、今までこの世には誰も霊を作ったという人はいませんでした。
ただ聖書でのみ、神様が霊を作ったと言っています。つまり、霊を作った存在は神様だということです。
そのため、他の生き物とは異なり、人には神様との関係があります。
肉体は親に似ています。 Why 親が作ったからです。
では、霊は誰に似ているでしょうか?神様に似ています。神が作ったからです。
では、神様は私たちのどこで見つけることができるでしょうか?
私たちの魂、精神、心で見つけることができます。魂は「精神」とも言われ、
ここには「神様」が宿っているからです。
「精神」という単語を使っているのに、まだ「神様」を認めることができませんか?
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野口英世、福沢諭吉は天国に行くのか? 地獄に行くのか?
偉人達は天国に行くのか
日本での偉人である野口英世、福沢諭吉(千円、1万円札の人物)、、
世界では尊敬されて素晴らしい方ですが、
はたしてこの方達は、天国と地獄のうち、
どちらに行かれたのでしょうか
気になること調べましょう。
[キリスト教の信仰がある人とない人の会話]
信仰のある人 「神様とイエス様を信じれば救われ、天国に行くけど、
その方達は本当に素晴らしい方達だけど、
それでも天国に行くのはちょっと難しくないかな?」
その後、信仰のない友人「いや、それはあまりにも不公平なんじゃない?
神様、イエス様の名前も聞いたことないのに、
どうやって信じることができるの?
その方達に、地獄に行けと言ったらと素直に認めると思う?
何か知らないと信じられないでしょ?
神様の審判ってあまりにもひどくない?」
はたして、これらの方達はどちらに行かれたのでしょうか?
1.イエス様が地獄にいる霊にも福音を伝道
聖書を見ると、イエス様が霊として、捕らわれている霊にも伝道するという内容が書かれています。 (Ⅰペテロ3章18-19節) ちょっと意外ですよね死んだら終わりだと思っていたのに、そこでも福音を聞く機会があるのですね
2.地獄にいる霊たちは誰ですか?
Iペテロ3:20
地獄にいる霊たちとは誰彼らは昔、神様の警告を無視してノアの箱舟に乗らず洪水によって死んだ者達です。(Iペテロ3章20節)
彼らがいる地獄は、神の律法を守らない者がいる場所。
3. 地獄にいる霊たちに福音を伝える理由
Iペテロ4:6
その御言葉を聞いて出てきた霊は天国に行き、聞かない人達はまだそこにいるのです。ユダヤの地に来られたイエス様が熱心に福音を伝えましたが、ある人はついてきてある人は聞かずに逆らいました。
そして、彼らがいる地獄は永遠に出られないところではありません。
亡くなった方たちのためにも祈ろう。
ここから確かに分かることは、生きているときにイエス様の御言葉を聞けなくても、
霊の世界で聞くことができるということです。
2人の偉人ついて、死んで天国と地獄に行って戻ってきた人が教えてくれない限りは、 彼らがどちらに行ったのかは正確には分かりません。
そして彼らが生きていた間に、神様とイエス様を信じて御言葉を守ったという文献はどこにも探すことができません。
しかし、彼らも霊の世界ではイエス様と多くの伝道者たちの福音を聞く
機会があると思います。
その時、どんな選択をするのかによって、
天国か地獄かが決定されるでしょう。
それは2人の偉人たちだけに当てはまることではありません。
大部分の信仰人には心の中に大きな荷物がひとつあります。
私たちの父母、祖父、祖母、先祖たち、また亡くなった愛する人の中に
神様を知らずに一生生きてきた方々もいるので、
その方々がもしも天国に行ってなかったらどうしようという心配です。
しかしありがたいことに、今日、御言葉を通して霊の世界にも
福音が伝えられるという事がわかりました。
なので、そのような方々のために、
霊の世界で福音を聞いて正しい選択ができるように、
彼らのためにお祈りをしてあげるのは、いかがでしょうか
(3-1) 野口英世、福沢諭吉は天国に行くのか?
地獄に行くのか?
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バイブルは神様の本?人の本?
バイブルは誰が書いた本でしょうか?神様でしょうか?人でしょうか?
これまで、数多くの人たちが白熱した討論をしてきましたが、今も結論が出ていません。
1. 聖書は誰が書いたのか?
バイブルは、数多くの預言者たちが書いた文章を集めた本です。
しかし、その中の一人であるダニエルはダニエル書を記録しましたが、記録した内容については本人も分からないと言っています。
これでもダニエル書の著者をダニエルだと言えるでしょうか?
バイブルは神様が直接記録した本ではありません。
霊である神様がペンを持って、バイブルを書く場面を想像できる方はいませんよね?
たとえば、『吾が輩は猫である』という本があります。夏目漱石という人が書きました。
彼がこの本の著者です。
本の内容を誰が一番よく知っているでしょうか? 夏目漱石でしょう。
夏目漱石が『吾が輩は猫である』の著者だから、
もし理解できなかったら、夏目漱石に聞けばいいわけです。
本には、著者の考えと思想と理論とすべての精神が込められています。
けれど、たとえば、誰かが夏目漱石に本について気になる内容を尋ねてみます。
しかし、自分もよく分からないと言います。
確かに自分が書いた内容だけれど、全く把握できていないというのです。
確かに自分がバイブルを書いた。けれど、自分が記録した内容を自分もよく分からない。
それでも、その人がバイブルの著者であると言えるでしょうか
このような部分は、主にバイブルの預言書に現れています。
先ほどのダニエル書についても、ダニエル書はダニエルが書きました。
それならば、ダニエル書についてはダニエルが1番よく知っているはずです。
しかし、ダニエルは、神様が夢と幻で示してくださった将来に起こることを見て記録したけど、
それを悟ることができず、このすべての結末がどうなるのかと尋ねています。
ところが神様は、「ダニエルよ、この御言葉は最後の時まで封じておく」とおっしゃいました
(ダニエル12章8-9節)。
つまり、ダニエルは夢と幻で見たことを記録はしたけれど
その内容については最後の時まで分からないままだったということです。
このような状況で、ダニエル書の著者をダニエルだと言えるでしょうか?言えませんね
聖書の著者 : 神様
ダニエル :代筆者
記者にはなれても、著者にはなれないのではないでしょうか?
バイブルを記録した人は、普通、著者とはせず記者と呼ばれます。
従って、バイブルの著者は神様であり、
ダニエルは神様の代わりにバイブルを記録した代筆者なのです。
バイブルは人が書きました。
しかし、その人が自分の思い通りにバイブルを書いたのではありません。
神様が代筆者を選び、バイブルを記録させたのです。バイブルを書いた方は神様ですが、
肝心の神様は霊なので見えず、代わりに記録した人だけが見えます。
だから、人が書いたと思ってしまうのです。
2. 驚くべき生命力が記録された聖書
また、バイブルには驚くべき点があります。
それは、バイブルは適当な言葉を書いたものではなく、記録者はその意味が分からなかったけれど、その御言葉には生命力があり、
記録した人が死んでから何百年、何千年が過ぎた後にそれが現実になるということです。
モーセが書いた、イエス様が十字架につけられるという預言(民数記21章8節)
ミカが書いた、イエス様がベツレヘムで誕生するという預言(ミカ5章2節)
イザヤが書いた、イエス様が処女から生まれるという預言(イザヤ7章14節)
ヨナが書いたイエス様が3日後に復活するという預言 (マタイ福音章12章39節-40節)
このような預言が1つや2つではなく、たくさんあります。
誰がこの預言を成し遂げたのでしょうか?
死んだイザヤやモーセが成し遂げることはできませんね。
預言した神様が成し遂げられたのです。
時を越えた巨大なスケールの計画を一つ残らず成し遂げられる神様、
そしてそれが記録されているバイブルは、尊敬に値するのではないでしょうか?
すべてのバイブルは神様の感動によるものであるという御言葉があります。 (テモテ3章16節)
多くの人が聖書を記録したけれど、本人の考えや精神を記録したのではなく、
神様のみ心を記録したということです。
神様の御心が記録されたバイブルを学んで、
何が起こるか分からない未来に備えてみるのは、いかがでしょうか?3
(2-1) 聖書は神様の文か人の文か
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